日本を代表する漫画家の藤子不二雄A先生が川崎市内の自宅で亡くなられました。
ご冥福をお祈りします。
藤子不二雄A先生といえば『忍者ハットリくん』や『怪物くん』など子供向けの漫画から、ブラックで独特な世界の『笑ゥせぇるすまん』など、大人も楽しめる漫画まで幅広いジャンルを描いた漫画界の巨匠です。
70年以上も歩んだ漫画道、たくさんの心に残る作品を残されました。
しかし『ドラえもん』の作者と思っている方もいるようなので、
「藤子不二雄AFの違いは?作品を分けたのは何故?」と題しまして、藤子不二雄A先生と藤子・F・不二雄先生の違いと、作品を分けた理由についてお伝えします。
藤子不二雄AFの違いは?
藤子不二雄A先生と藤子・F・不二雄先生は、元々「藤子不二雄」という名で一緒に漫画活動をしていました。
「藤子不二雄」とはお二人のペンネームだったんですね。
お二人の出会いは小学生の頃で、その頃からコンビを組んでいました。
小学生の頃から漫画家を目指し、活動していたなんてとても利発な子供だったのではないでしょうか。
お二人の経歴をかなり簡単にまとめると、以下のようになります。
- 小学校で藤子・F・不二雄先生と出会い一緒に漫画を描き始める
- 高校在学中に「藤子不二雄」としてデビュー
- 1954年2人で上京し数々のヒット作を生み出す
- 1987年 「藤子不二雄」として活躍した35年間のコンビ解消
35年間も一緒に活動していたんですね。
とても仲が良かったのではないでしょうか。
お二人は一緒に漫画活動をしていましたが、作品はそれぞれ制作していました。
藤子不二雄A先生・藤子・F・不二雄先生の代表作をまとめるとドラえもんは藤子・F・不二雄先生の作品だということがわかります。
「藤子不二雄」の共作は『オバケのQ太郎』で、他の作品についてはそれぞれが描いた漫画でした。
藤子不二雄A先生の代表作
- 忍者ハットリくん
- 怪物くん
- まんが道
- プロゴルファー猿
- 笑ゥせぇるすまん
藤子・F・不二雄先生の代表作
- ドラえもん
- 21エモン
- パーマン
- キテレツ大百科
- エスパー魔美
【写真まとめ】藤子不二雄Aさん死去 数々の名作残し:朝日新聞デジタル https://t.co/xLxsyq1kA2
写真は41年前に撮影された藤子・F・不二雄さん(左)との2ショットです。ご冥福をお祈りします。(細) pic.twitter.com/dJTt8lkz55— 朝日新聞 映像報道部 (@asahi_photo) April 7, 2022
藤子A先生の訃報
「尊敬する漫画家は?」の質問には
必ず
「藤子くんです。」と答えた「藤子くんがいなければ
僕は漫画家にならなかった。」よく話していた言葉だそう。
元相棒であり
尊敬する存在それが
藤子・F・不二雄先生一歩先を歩む
藤子先生の元へ
安孫子先生も。ただ感謝 pic.twitter.com/IbfJUbW6ds
— 福笑 (@smile106uvu) April 7, 2022
藤子不二雄Aのプロフィール
【訃報】漫画家・藤子不二雄Aさんが死去 88歳https://t.co/14u0eS1VzB
7日午前、川崎市内の自宅で亡くなったことが分かった。警察が死因などを調べている。代表作には『忍者ハットリくん』『怪物くん』のほか、『まんが道』『プロゴルファー猿』『笑ゥせぇるすまん』などがある。 pic.twitter.com/f51CkAb4Uz
— ライブドアニュース (@livedoornews) April 7, 2022
藤子・F・不二雄のプロフィール
藤子不二雄A先生の相方で、ドラえもんの作者 藤子・F・不二雄先生。
海外の子供たちに「四次元ポケットを見せてください」と言われたとき、「ポケットは、ドラえもんが付けてるものと、予備(スペア)の2つしかないから、僕の分はないんだよ」と答えられていました。#藤子・F・不二雄#ドラえもん pic.twitter.com/f2gC8ebYrS
— なおみょん(りーや) ガオラー&miwaクラ&虎党🎌🐯 (@LGM_Naomyon_517) April 7, 2022
藤子不二雄AF・作品を分けたのは何故?
「藤子不二雄」は1954年にコンビを結成しましたが、1987年に解散しています。
喧嘩別れしたのでは?
等の憶測もありましたが実際には円満解散でした。
2人はコンビを組んでいた時に「藤子不二雄」として得た収入は折半していました。
これは2人の納税額がほぼ同じだったことからもわかっています。
では何故コンビを解消したのでしょうか?
それは藤子・F・不二雄先生の体調不良がきっかけとなりました。
藤子・F・不二雄先生は自身が病で先に逝くことを考えた時、これまでの折半の著作権料では残された家族がトラブルを起こすかもしれないと考えたからです。
藤子・F・不二雄先生はドラえもんの作者で、ドラえもんは大ヒットしていました。
今でも毎年映画が公開されていることからも周知の事実ですね。
小学生時代から仲良く同じ夢に向かって歩んだ友でありパートナーですから、自分達2人だけなら折半でよかったのかもしれませんが、家族がいるとそうはいかないということです。
でも生前に著作権をはっきり分けていたことは、残された家族が争うことにならずに済んだわけですから藤子・F・不二雄先生の英断だったと言えます。
藤子不二雄A先生がそれを受け入れたのは2人の友情があったからこそだと思います。
まとめ
藤子不二雄A先生と藤子・F・不二雄先生は、元々「藤子不二雄」という名で一緒に漫画活動をしていました。
「藤子不二雄」とはお二人のペンネームです。
お二人の出会いは小学生の頃で、その頃からコンビを組んでいました。
コンビ解消の理由は、藤子・F・不二雄先生は自身が病で先に逝くことを考えた時、これまでの折半の著作権料では残された家族がトラブルを起こすかもしれないと考え作品を分けたからです。
最後までご覧いただきありがとうございました。
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